INSIGHT
人的資本を企業価値向上のカギとする動きが広がる。このインサイトではTOPIX100社の人的資本戦略の実態とその企業価値への影響を分析する。機械学習とSHAP値を用いた実証分析の結果、人的資本施策は単独では効果が限定的であり、ガバナンスや戦略と連動した「束ねた実装」が成果を生むことが明らかになった。人的資本への取り組みを企業価値向上につなげるためには、この「束ねた実装」に取り組んでいることをステークホルダーに伝え、理解してもらうことが重要である。その意味で、人的資本の取り組みに関する開示は単なる報告義務にとどまらず、戦略的な意図を持ってその価値を伝えるツールとして活用されるべきである。
人的資本と企業価値の関係を実証的かつ定量的に分析する方法
近年、人的資本は企業価値創出の中核的要素として、その重要性に対する認識が急速に高まっている。しかし「人的資本への投資が企業価値にどのようなルートで寄与しているのか」について、実証的かつ定量的な理解は十分に進んでいるとは言いがたい。特に、人的資本に関するどのような施策が企業価値の向上に結びついているのかは、学術的な関心の対象であるだけでなく、企業の実務にとってもきわめて重要な問いである。
われわれの先行研究(三菱総合研究所(2025))では、BloombergのESG指標に含まれる人的資本およびガバナンスのスコアを用い、人的資本の取り組みが企業のPBR(株価純資産倍率)やTFP(全要素生産性)に与える影響を実証的に検証した。その結果、企業価値に一定のプラス効果を持つものの、ガバナンスとの連動がなければ中長期的にはその効果が薄れる傾向があることが明らかになった。つまり、人的資本の取り組みは、単体では持続的な成果につながりにくく、ガバナンスや企業戦略に明確に組み込まれ、連携して推進されることで初めて効果を発揮するといえる。
この知見を踏まえ、今回は人的資本戦略の要素とその「組み合わせ」に焦点を当てる。
具体的には、まずTOPIX100社の統合報告書や有価証券報告書をもとに、6つの要素——①中長期の成長目標(伸ばすべき事業セグメントの成長目標)、②現状とのギャップ(課題)、③課題解決上重要な人材、④重要な人材の確保目標、⑤重要人材確保の方針、⑥確保方針に係るKPI設定と進捗——についての取り組み状況を収集した。
次に、PBRおよびTFPへの影響を分析、機械学習(ランダムフォレスト回帰)とSHAP値(SHapley Additive exPlanations)※1分析により評価した※2。その際、企業価値を測る主要な指標としてPBRとTFPを用いた。PBRは企業の財務状態や収益性に加え、ブランド力や人的資本といった「目に見えない価値」への市場評価を反映する※3。一方、TFPは資本や労働といった投入量では説明できない効率性やイノベーション、すなわち多くの場合、人的資本など無形資産に起因する「生産性向上」を捉える。両指標を併用することで、人的資本が企業価値に与える影響を、市場評価と内部生産性という二つの側面から多角的に把握することを目的としている。
さらに今回は、人的資本がこれら異なる側面から企業価値に与える影響を、SHAP値分析を用いて包括的に検証する。SHAP値分析は、個々の人的資本に関する取り組みや、それらの組み合わせがPBRやTFPの予測値にどの程度影響しているかを、ゲーム理論に基づき公平に分解・可視化する手法である。これにより、三菱総合研究所(2025)で示された「人的資本とガバナンスの連携」という大局的な関係性を、より具体的な人的資本の施策レベルで深掘りし、どの施策の組み合わせが企業価値に特に有効なのかを明らかにすることができる。
SHAP値が正の場合は、その要素がPBRやTFPを押し上げる要因になっていることを示し、負の場合はその要素が押し下げる要因になっていることを示す。また、その大きさ(絶対値)は、その要因がPBRやTFPに与える影響の強さを表す。
分析結果:人的資本の「束ねた実装」が成果を生む
分析の結果、人的資本の各要素は、単独ではPBRやTFPに対して限定的な、あるいはマイナスの影響を持つ場合が多かった(図表1)。例えばPBR、TFPとも、「③課題解決上重要な人材」や「④重要な人材の確保目標」などは、それぞれ単独では評価されにくく、短期的にはコストと見なされる可能性がある※4。つまり人的資本に関わる取り組みは、「やれば評価される」わけではないという現実が浮かび上がった。
図表1 人的資本関連各項目のPBR・TFPへの平均SHAP値(単独項)
注:図の数値は、PBR(ROE調整済)やTFPの予測値に対し、各要素が基準となる平均予測値から、どれだけその予測値を押し上げる、あるいは押し下げる要因となっているか(貢献度)を示す(以下同様)。
三菱総合研究所作成
これに対して、複数の要素を戦略的に組み合わせた場合、PBRやTFPを大きく押し上げることが確認された。特に分析の結果、前述の6つの人的資本施策要素の中から、企業価値向上への貢献が最も相乗的かつ効率的に現れる「核となる4つの要素」を全て同時に実施した場合は、個別要素の単独効果の総和を上回る相乗的な効果をもたらすことが示された。これは、人的資本戦略で単に多くの施策を並行するのではなく、効果が最大化されるための重要要素を厳選し、一貫性を持って体系的に実行することの大切さを示している。さらに興味深いのは、PBRとTFPという2つの企業価値指標に対する効果は、それぞれ異なる要素の組み合わせで大きくなる点である。
(1) PBRに対して有効な人的資本への取り組み
PBRは投資家の期待を反映する市場評価指標である。今回の分析では「①中長期の成長目標」「②現状とのギャップ(課題)」「③課題解決上重要な人材」「④重要な人材の確保目標」の4要素が組み合わさることで、個別の要素や他の組み合わせと比較しても最も高い相乗効果※5が得られ、企業価値への影響が最大化された(図表2)。この結果は、4つの要素が単独で存在するのではなく、一貫した「ストーリー」として連携していることの重要性を示唆している。具体的には、企業の進むべき「中長期の成長目標」を定め、その目標達成に向けた「現状とのギャップ(課題)」を特定し、その課題を解決する「重要な人材」を定義し、そして「人材の確保目標」を立てて実行するという、目標設定から実行までの一貫した論理的な流れが、事業戦略と人的資本戦略を結びつける核となっている。
図表2 人的資本各関連項目とPBRへの影響(4要素交差項:上位5位)
三菱総合研究所作成
この組み合わせが特にPBRに高い効果を持つのは、投資家が人的資本への取り組みを評価する際に、この一貫したストーリー、すなわち、企業全体の方向性と人的資本の戦略的配分に関する明確なコミットメントを重視するためと考えられる。一方で、「重要人材確保の方針」や「KPI設定と進捗」といった要素は、企業内部のマネジメントや実行の具体性を示すものであり、PBRが測る「市場からの評価や期待」では、上記の戦略的意図や人材獲得へのコミットメントほど影響力を持たない。投資家は、実現が期待される成長ポテンシャルや、人材戦略が事業戦略にどう織り込まれているかという、より上位の戦略的整合性を評価する傾向にあるためである。
このような体系的な取り組みこそが、人的資本戦略の実効性を高め、PBRという形で市場からの評価に強く結びついているものと考えられる※6。
以上の分析結果は、大変示唆的である。近年、非財務情報開示の進展により、投資家は単なるIR資料の記載だけでなく、報告内容の整合性や実行の筋道に注目している。人的資本の取り組み内容は定量化が難しいゆえに、企業が語る「ストーリー」の整合性が評価の分かれ目になる。このような状況下で、一貫性の高い一連の人的資本——ガバナンス・組織戦略が、市場での信頼を獲得するカギとなっている。
(2) TFPに対して有効な人的資本への取り組み
続いて、TFPを押し上げる効果の高い要素の組み合わせを見ていく。TFPは企業内部の生産性向上を示す指標である。今回の分析では、今回考察した6つの人的資本施策要素の中で、「①中長期の成長目標」「②現状とのギャップ(課題)」「③課題解決上重要な人材」「⑥確保方針に係るKPI設定と進捗」の組み合わせがTFPを最も効果的に押し上げることが示された(図表3)。この組み合わせも、個別要素の単独効果の合計ではマイナスとなるが、その4要素が連携することで大きな相乗効果を生み出している※7。
特にこの4要素は、戦略的な目標設定から現状認識、重要人材の特定、そして具体的なKPIによる進捗管理まで、成果に直結する「マネジメントサイクル」を一貫して実行するものである。このサイクルが機能することで、組織内のボトルネックが解消され、人的資本が最大限に活用されるため企業内部の実質的な生産性向上に直接寄与すると考えられる※8。
図表3 人的資本各関連項目とTFPへの影響(4要素交差項:上位5位)
三菱総合研究所作成
企業価値を測る指標として、PBRが投資家の「将来への期待や評価」を反映する一方、TFPは「実際の稼ぐ力や現在の効率性」を示す。このような両者の本質的な特性の違いは、今回の分析ではそれぞれに効果的な人的資本施策の組み合わせが異なるという結果に明確に表れている。
PBRに最も効果的であった要素の組み合わせには「④重要な人材の確保目標」が含まれる一方、TFPに最も効果的であった要素の組み合わせには「⑥確保方針に係るKPI設定と進捗」が含まれる。これは、投資家が企業価値を評価するPBRでは、将来の成長ポテンシャルや市場競争力に直結する「必要な人材を確保する」という戦略的なコミットメントや意図が重視されるのに対し、TFPが示す企業内部の生産性向上には、「具体的な施策の進捗を測定し、効率性を高める」という実行と成果の可視化がより直接的に寄与することを示唆している。
関連する経営戦略を一貫性と一体性を持って実装することの重要性
今回の分析結果から、人的資本の「実装力」が企業価値向上にきわめて重要であることが分かった。ここでいう「実装力」は、単に個別の人的資本施策を行うだけでなく、戦略目標から施策、評価までが論理的につながる「一貫性」と、個々の施策が相互に補完しあい、全体として相乗効果を生み出す「一体性」を伴ったマネジメントを通じて実行される体制を指す。今回明らかになった、PBRやTFPに最適な4要素の組み合わせが単独要素の合計を上回る効果を生むのは、まさにこの「一体性」に基づいた「束ねた実装」が成功していることを示す。経営施策は互いに補完的に導入されたとき、単独では得られない成果を生む(Milgrom and Roberts(1995))。今回の分析でも、要素間の補完性がプラスの効果を引き出していることが確認された。
また、Lepak and Snell(1999、2002)の人的資源ポートフォリオ理論が提唱する「戦略的に重要で希少な人材」に対し、その価値に応じて管理・投資のアプローチを変えるという視点も欠かせない。今回明らかになった、「課題解決上重要な人材」やその「確保目標」といった施策は、まさに企業が戦略上特に重視すべき人材への具体的な対応を示している。これらは単体では効果が低くても、戦略や進捗管理と連携することで、価値ある人的資本施策となる。人的資本は、単なる個別の人的資源ではなく、経営戦略の一部として「束ねて活用されてこそ」企業価値に貢献するのである。
さらに、三菱総合研究所(2025)が示した「人的資本×ガバナンス」の組み合わせ効果とも整合する結果が得られた。今回分析した項目のうち、「成長目標」や「KPI管理」はガバナンスの要素と親和性が高く、企業の戦略実行力そのものを反映している。PBRにもTFPにも効果が高い組み合わせの中にこれらが含まれていたことは、人的資本戦略が単なる人事施策ではなく、ガバナンスと一体的に設計されるべきであることを示している。中長期の成長目標やKPI管理は、企業の戦略的整合性と実行可能性の指標として、投資家や従業員双方にとって信頼の源泉となる。特に成長戦略が実施段階まで設計されている企業は、「持続的価値創出能力が高い」と評価されやすい。
このような「戦略と連動した人的資本の実装力」は、特に経営層や取締役会の関与なくしては実現が困難である。HR部門の専管事項として捉えるのではなく、全社的な経営アジェンダとして扱う必要がある。
戦略ツールとしての人的資本開示に向けた2つの指針
今回の分析を通じて、企業への実務的示唆として以下の2点が導かれる。
第1に、人的資本戦略の「実装力」の重要性である。「実装力」とは、戦略目標から施策、評価までが論理的につながる「一貫性」と、個々の施策が相互に補完しあい全体として相乗効果を生み出す「一体性」を伴ったマネジメントを通じて人的資本戦略を実行することを指す。PBRやTFPといった企業価値向上には、単に個別の施策を行うだけでなく、このような「束ねた実装」が不可欠である※9。
第2に、人的資本開示の目的を、単なる情報開示義務の遵守や形式的な評価にとどめず、企業の人的資本戦略の「実装力」をステークホルダーに戦略的に伝えるツールとして活用することの有効性である。開示を通じて企業が人的資本戦略の「一貫性」と「一体性」を明確に提示することで、投資家は企業の将来の成長性や生産性に対する深い理解を得ることができ、これが企業価値評価につながる。さらに、このような戦略的な開示は、社内に対しても人的資本戦略の意図や進捗を浸透させ、社員の理解と行動を促す効果も期待される。
人的資本経営はもはや流行ではなく、企業の持続的成長にとって不可避の経営テーマとなっている。今後は、戦略の一部として緻密に設計し、実行と評価の仕組みまでを実装した人的資本施策に取り組むことが不可欠である。それこそが、真の企業価値向上につながるのである。
※1:SHAP値は、機械学習モデルの予測結果に対し「どの要素がどれだけ影響したか」を数値で示す手法である。これはゲーム理論の「シャープレイ値(Shapley value)」を応用した方法で、各要素の貢献度を公平に評価できることが特徴である。
※2:三菱総合研究所(2025)では全上場企業を対象に10年超の大規模のパネルデータを用いた分析により、人的資本施策が企業価値の向上をもたらす統計的な因果関係の検証に焦点を当てた。本分析で用いたデータセットは100社3年という小規模なデータセットであり、その中で堅牢な予測性能を発揮するランダムフォレスト回帰とSHAP値の分析により、複雑な関係性の発見と解釈に重点を置いている。ランダムフォレスト回帰とSHAP値の分析方法に関しては【付録】参照。
※3:PBRの分析においては、企業の収益力を示すROE(自己資本利益率)で説明される部分を除いた残差(ROEでは説明しきれなかった部分)を被説明変数として用いている。これは、財務的成果(ROE)だけでは捉えきれないPBRの変動要因、特に人的資本など無形資産的な価値がPBRに与える影響をより純粋に評価することを目的としている。
※4:人的資本への投資は、研修費用や採用コストなど短期的な費用を伴う一方で、生産性向上や企業価値向上といった成果の発現には中長期的な時間が必要とされる。本分析で用いた3カ年のデータでは、投資の短期的なコストが中長期的な効果を上回って現れる可能性も想定される。
※5:なお、本分析では2〜6要素における全ての組み合わせパターンについて網羅的に計算しており、その結果、4要素の組み合わせが最も効果的であったことが統計的に示された。
※6:例えば、中外製薬株式会社の人的資本レポートでは、「志を持って挑戦し続ける人財の増加」「人財を支える仕組みの整備」「挑戦・成長を促す文化の醸成」の3要素を、「描く・磨く・輝く」という一貫したストーリーに整理し、人的資本施策と事業戦略の整合性を明確にしている。 インサイト2:メディアとしての人的資本レポート
※7:実際に、6要素全てを含む交差項のSHAP値は、この4要素の組み合わせのSHAP値を大きく下回る。
※8:さらに、上位5位の組み合わせを見ると「①中長期の成長目標」と「⑥確保方針に係るKPI設定と進捗」が共通要素として多く含まれており、一連のPDCAサイクルを回す包括的な「人的資本マネジメントの実装」がTFPに貢献することを示している。
※9:この「実装力」を企業全体に根付かせるためには、人的資本施策を支えるガバナンス体制との連動が重要である。人的資本に関する目標や取り組みがガバナンスと連動することで、企業価値に資する戦略としての一貫性は高まる(三菱総合研究所(2025))。経営の根幹に組み込まれた統合的な仕組みとして位置づけられてこそ、人的資本戦略はその本来の価値を発揮する。